ベスト氏の訃報に世界中が哀悼
2005年11月26日(土)北アイルランド史上最高のサッカー選手、ジョージ・ベスト氏の訃報は、北アイルランド国内だけでなく世界中に大きな悲しみを与えている。
国際的ヒーロー
25日にロンドン市内の病院で、臓器不全のため59歳で亡くなったジョージ・ベスト氏の訃報は、祖国の国境を越えて世界中に広がった。“ベスティ”は、世界中のサッカーファンのヒーローだっただけでなく、スポーツにはほとんど縁がない人でも知っているほどの有名人だった。
ボイス会長の談話
北アイルランド・サッカー協会のジム・ボイス会長は、「彼は本物の紳士であり、接していて楽しい人だった。ピッチ外ではいろいろな問題があったが、今後も伝説的サッカー選手として、人々の記憶に残っていくだろう。ここ数年は、世界のどこへ行っても、ジョージのことを聞かれたものだ」と、追悼のコメントを発表している。
黄金時代
“天才”という言葉は、安易に使われすぎている嫌いがある。だがベスト氏は、多少その名にキズはついているものの、間違いなくこの言葉が当てはまる人物だ。絶頂期には、ずば抜けた才能を持つ選手の1人として、1967-68シーズンのマンチェスター・ユナイテッドFCの欧州チャンピオンズカップ初制覇に貢献。そして弱冠22歳で、イングランドおよび欧州の最優秀選手に選ばれている。
「エル・ビートル」
ベスト氏は、その数年前、まさに彗星のごとくオールド・トラフォードに現れ、1964-65と1966-67シーズンのリーグ優勝の原動力となっていた。その間、1965-66シーズンには、欧州チャンピオンズカップの準々決勝で、強豪SLベンフィカをほとんど1人で破壊し、世界中の注目を浴びた。ポルトガルのメディアは、そのずば抜けた能力と、サッカー選手で初めてスーパースターとなるに至ったそのルックスから、彼を“エル・ビートル”と呼んだ。
抜群の得点力
1週間で1万通のファンレターを受け取っていた時期もあるというベスト氏。しかし、ピッチ外のことで世間に騒がれつつも、ユナイテッドでは輝きを放っていた。実際、6シーズン連続でクラブの得点王になっている。彼がウィンガーで、チームには点取り屋のデニス・ロー氏もいたことを考えれば、素晴らしい功績だ。ユナイテッドでは、通算474試合に出場し180得点を記録している。
類いまれな才能
ベスト氏の持ち味は、一級品のテクニック、信じられないほどのバランス感覚、スピード、両足からの正確無比なシュート、そしてテクニックが力でつぶされる時代にあって、決して怯まなかったその勇敢さだった。これらすべてを、彼は当時の劣悪なピッチの上でやってのけたのだ。
代表でのキャリア
キャリアにおいて最も残念だったのは、彼が一度もFIFAワールドカップの舞台に立てなかったことだろう。北アイルランドは、1958年に出場を果たして以来、1982年まで本大会から遠ざかっていた。1982年のスペイン大会の時は、当時のビリー・ビンガム監督から招集がかかる可能性もあったが、すでに36歳になっていたベスト氏が、37キャップ9得点という代表キャリアを更新することはなかった。
アルコール依存症
1974年にオールド・トラフォードを去ると、まだ27歳だったが、その後二度とトップレベルの輝きを見せることはなかった。現役時代からアルコール依存症に苦しみ、普段は温和で知的で思いやりのある性格が、飲むとそれが一転し、悪い一面が出てしまうのだった。
「最も偉大な選手」
このようにアルコールによって自らの才能を無駄にしたベスト氏だったが、ファンたちは、ベルファストのストリートからやってきた少年が、史上最も偉大で最も有名な選手の1人にまで上り詰めた功績を称賛した。ペレ氏は、彼を「史上最高」と呼び、ユナイテッドのアレックス・ファーガソン監督は、「間違いなく最も偉大な選手」と称した。
その名にふさわしく
ベスト氏の死に際し、唯一慰めがあるとすれば、多くの人が彼の才能を今一度思い起こす機会を得たことだ。ベストはまさにベストだったと、人々は彼の往年の活躍をしのんでいることだろう。
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